勝手に比較 ―「ルパン三世」とジャッキー・チェンと共に30年―


またまた、あまり関連性のないモノと「ルパン」ワールドとの比較をしてみたので、ちょっと語らせて欲しい。
最近、ジャッキーチェンにハマってます。熱中し過ぎて別サイトを作っちゃったりなんかしてるわけですが、ジャッキーチェンと「ルパン三世」はKの中でわりと似通ったものがあるんじゃないかと感じている。いや、作品自体などにはまったく共通項はないが、あくまで個人的に、自分の人生との関わりにおいて似たものがあるのだ。
それは、考えてみればそれほど不思議なことではない。「ルパン三世」セカンドシリーズのブームとジャッキーチェンのブームは時期的に被っている部分があるからだ。赤ジャケルパンが子供たちの間で人気があった1970年代後半、おおよそ同じ時期にジャッキーチェンのカンフーブームが世の中を席巻していて、どちらも国民的認知度のある存在であった。映画やアニメに全く興味のない人でも、ルパン三世とかジャッキーチェンとか、名前くらいは聞いたことがあるだろう。それくらいに日本人に取っては馴染み深く、メジャーなものではあったのだ。
小学生時代、それほど節操がなかったKはどちらもそこそこ好きで、テレビでやっていればたいてい見ていた。ルパンもジャッキーもそれから約30年、現在進行形で続いているわけだが、Kにとってやっぱりどちらも同じようになんとなく、30年間お付き合いしてきたものである。
だからこれまでのたいていの作品は知っているし、見ているし、ざっとしたヒストリーについての知識はあるけれど、それ以上の詳しいことはあまり知らない。媒体はほとんどテレビで、テレビ放映されるから見ていたってくらいで、わざわざビデオをレンタルしてきて見るほどのものじゃなかった…というのが実際のところだ。人間に例えると、昔から近くにいたという幼馴染みみたいなものだね。子供の頃、特別に好きだった頃もあったけど、それほどでもない時期も多く、あんまりにも身近すぎてだらだらと付き合いを続けてしまっていた。
そしてずいぶんと大人になって、ハッと気づいたわけです。

「なんてすばらしい作品なんだ!」

…近くにいすぎて良さに気づかないものって、結構いっぱいあるんだよ。自分の住んでいる土地とか、友人とか、家族とか。そういうことに気付き、改めて「いいなぁ」と感じられる感受性を養ってきたなら、人に語れるほど立派な人生じゃなくても、そう卑下したもんじゃないだろう? なんて思うわけである。(もっと早く気付け!っていうツッコミは却下/笑)

いや、そんな話をしたいんじゃなくて、とにかくある日彼らの魅力を再認識したKは、今までの作品を見返したり語ったり考えたりして、もう一度彼らと向き合うようになった。いわゆる自分的に再ブームが始まったわけだ。そうやって「なんとなく好き」から「魅力に気付いて見直していく」という意味で、自分と彼らとのこれまでの関わり方がとてもよく似ていたなぁと思ったんだが、30年間続いてきたという事実から起こる現象についても、共通点があることに気がついた。
それはファンとしての立場について、みたいなものである。

今じゃインターネットという便利なものがあるので、自分ひとりで地味にファンをやっている一方で、いろいろなファンの声を聞いたり、語り合ったりすることができるようになった。一口にファンと言っても、当然ながらレベルも年代も、興味のある範囲も様々だが、特に長い年月、ずっと好きでありつづけた人たち、つまり作品が現在まで続く原動力になった長年のファンの方々の言葉には、いろんな重みがある。
30年というのは長い。世の中も大きく変わり、子供が大人になるのには十分な時間だ。当然、メディアに求めるものも変わってくるから、メディアの中にあるルパンたちは昔と同じままでいることはできない。時代やニーズに合わせて少しずつ変化していくことにより、新しいファンを獲得してきた。そうしてテレビ画面の中で今も息づいているルパンたちだが、時代と共に変貌していく彼らについて、以前からのファンだった人々には様々な心境がある。
一言で言えば、永く続いてくれていることに対しての喜びや誇りを感じる一方で、そこに生じる「以前との魅力のズレ」をどうとらえるか、というジレンマみたいなものだろうか。
最近のファン、新しくファンになった人にとっては理解しにくいかもしれない。最近の作品を見てファンになり、昔の作品も初めて見て、「面白い!」と思う分にはそれほどの違和感もなく、今の作品も昔の作品も頓着なく受け入れることができるだろう。あるいは昔の作品は時代が古過ぎると感じ、今の方がお洒落でいい、と思うかもしれない。まぁ、例えば今の高校生たちが好きな音楽アーティストとかが二十年後に同じような活動をしているとして、家庭を持ったり子育てをするようになった彼らがまだそのアーティストを好きでいるなら、なんとなーく複雑な気持ちで二十年前のアルバムを聞くのかもしれないし、そうなって初めて共感できるのかもしれないな、と思う。
自分がすごく好きだった対象が変わっていくことについて、理想と現実のギャップは厳しい。ファンには最盛期というものがあって、作品やスター自身のそれとは別に、自分の人生の中でその作品に一番情熱を注いだ時期や作品が、「理想」であり「最高」なのだ。その時形作られた「理想」は焼き付けられた写真のようなものだ。フレームの中に納まって、輝かしい一瞬として残される。「現実」とは流れていく時間そのもののことだから、その流れの中でどれだけ「理想」の範疇から外れないでいられるか、という試練である、という考え方もできるだろう。(厳密に言えば「作品」と「ファンとしての時期」はまったく別のものなので、まとめてしまうことは非常に乱暴だとは思うのだが…;)

K自身は最近新しくファンになったというのではなく、かといって30年間、作品を支え続けてきた古いファンといえるほどでもない、実に中途半端なところに位置するわけだが、古くから作品を見ている立場としては、古いファン層の気持ちは大体理解できるつもりだ。そして蓄積した思いを抱えていない分、多くを主張したいとも思っていない。だから変遷していく「ルパン」たちに対するファンの複雑な感情について、とてもデリケートな問題だし、深く踏み込むべきものでもないと思っている。ただ、表面的であれ深層的であれ、変わっていく彼らをどう受け止めるか、という命題に対して、個々のキャパシティによる答えは様々であるとは思う。そして、ひとつのものを好きでいつづけるってことはなかなか大変なことなのだなぁ、とファンでいることの難しさのようなものを感じてもいる。
先に言っておくが、Kはこういう「変化」を受け入れるべきものだとは全然思っていない。「ルパン」のどういうところが、自分の感性の何処の部分で「好き」であるのかによって、これは大きく変わってくるところだろう。「ルパン」に感じている魅力はファンによって似ているようでいて、実は微妙に異なる。だから、変わっていく部分をアリだと思うかナシだと思うか、受け入れられるか受け入れられないかはそれぞれの「好き」によって前後するものだし、修正するなんて出来ようはずもない。こればっかりは感性に委ねられた問題なのだ。
スターとファンの間には何の契約もない。面倒な手続きも言明も何もなく、ファンはある日いきなりファンになるし、突然それをやめるのも自由意思だ。スターが変わっていくとして、ファンはその「変化」についていかなければならない義理も約束もないから、新作をひたすら拒絶し、酷評し続け、昔の作品の方が絶対面白い!と主張しているファンがいたとしても、それはおかしなことではないだろう。スターが間違っているとか、ファンが正しいとかいうことではない。「最高」を賛辞し続ける気持ちは十分に理解できるし、そういう形で愛情表現をするファンがいたって当然のことだとも思うのだ。
だからキャパシティというのは正しい言葉ではない。無償の情熱をそそぐファンというのは、そんなところで物分りのいい大人ぶる必要なんて全然ないだろう。ひたすら自分の感性に従って、ひたすら自分に正直に、好き嫌いの感情だけで語り続けていいのだ。(もちろん、犯罪や取っ組み合いのケンカにならないことが前提。最低限のマナーは必要だね)

しかし、自分に正直でありたいとも思う一方、好きなもののすべてを受け入れたいと思うのもひとつの愛の形だ。どんなに変わってもやっぱり好きなのだ。好きだから、変わっていくのがツライのだというのも偽らざる感情として存在する場合もある。結局、「ルパン」が現在進行形でこうして話題にすることができるのも、形を変えながらでも続いてくれているおかげではある。K自身もテレスペがきっかけでルパンファンに舞い戻ったようなものだ。そう思うと、変わらないでくれと願いながら、活性化をも求めるならば、「変化」も受け入れざるを得ない部分は否定できない事実でもある。
もちろん、ここに正解も答えもない。ファンに正しいあり方なんてあるはずもなく、それぞれが好きなような「ルパン」を語り、「ルパン」を愛せばいいのだ。ただ、こういう作品のファンでいるということは、長く長く好きでいるということは、単純で無邪気な「好き」だけではなかなか続かないものなんじゃないかという気はする。どこまで受け入れて、どこから受け入れられないか。そんな取捨選択を常に繰り返しながら、継続していくものなのかもしれない。

30年も続いてきた作品に付き合ってきたファンは、多くが忍耐強くて冷静で、偏執的な妄執に縛られることのない、情に深い優しい人たちだ。それだけにいろんなジレンマや葛藤を抱えている。無邪気にすべてを受け入れるほど簡単で情熱的な「恋」であった時期はとっくに過ぎているのだし、嫌いな部分をすべて排除して目をつぶってしまえるほどの排他的な盲愛でもない。結局のところ、多くのファンにとって、どこまでを受け入れるかというのはそれぞれが直面する問題であり、葛藤があるのだなと感じずにはいられないわけで。

不本意ながら、我々は良くも悪くも、物分りのよい「オトナ」なんだろう(苦笑)。



<了>

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