「リアル」な「ルパン」 


さて、「ルパン三世」ワールドのリアリティについて、ちょっとばかり考えてみる。
ルパンはリアルか――という問いには、いろいろな考え方ができるだろう。
ファンタジー(異世界)やSF(近未来)などのジャンル分けとして捉えると、「ルパン三世」は一応、現代社会をベースにした世界観で成り立っている。
物語の舞台は地球上のどこか、だ。日本だったりモロッコだったり、架空の軍事政権国家だったり。ルパンは魔法は使えないし、空も飛べないし、もちろん超能力も使えない、基本的にはごく普通の人間だ。ただし、物語の中では死人が生き返ることアリ、異世界に迷い込むことアリ、不老不死のクローン出現やらUFO来訪など、何でもありの無節操ぶりを見せてくれる。現代活劇、には違いないのだが、例えばハードボイルドとかスパイ小説ほど、現実世界に則したリアリティを重視してはいないようだ。(まぁ007だってスパイ映画なのだから、その定義は曖昧なのだが…^ ^ )

そういう意味で、「ルパン」はリアルとは言い難い。しかし、何か独特の空間を形成していると言うか、奇妙な仮想現実を感じさせる一面を持っていると思うのである。
言葉にするのは難しいが、例えば「ルパン」ファンの一部の傾向として、ベンツだけが主役のように置かれたり、異国的な街並が直線的なイメージで並ぶような、妙にスタイリッシュな風景イラストなどを見かけることがある。人物が全く不在なのに、どことなくルパンを連想させる、ぎりぎりに計算し尽くされた無機質にも見える雰囲気のようなもの。
この禁域のような完成されたイメージはなんなのだろうな? と思ったりする。キャラクターへの愛中心で動いているKなどには、およそ見過ごしてしまいがちな魅力なのだろうが、仮想現実空間そのものがルパンワールドに直結しているように感じられる。

関連して、特に男性ファンに多いと思うが、車などの小道具のリアルさに魅力を感じる人もいるだろう。
その昔、アニメ界に「実証主義宣言」というものがあったそうだが、「ルパン」では銃や車などの種類を現実のものに設定し、本物そのままに描写してある。ブランドの時計や煙草など、アニメシリーズが進む中でその回ごとに設定されたものも少なくないが、やはり圧倒的な銃のリアリティなどは、男の子のハートをくすぐるアイテムだったには違いない。
要するに、車いじりが大好きな男性などは、いくつになっても「ガンダム」のモビルスーツのリアリティがカッコよくてたまらない!という感性でもって、「ルパン」の世界観そのものに憧れを抱くようである。

「ルパン、カッコいい!」
と、そんなルパンワールドに子供心に憧れた少年少女は少なくなかろう。
だがしかし。「ルパンみたいになりたい!」と子供が言い出すと、親としてはいささか困るかもしれない。何しろルパンは犯罪者だ。将来の夢が泥棒では、確かにちと問題があるだろう(笑)。実際、新ルのリアルタイム時は「子供に見させたくない番組ナンバー1」だったらしいから、当時はずいぶんとエキセントリックな番組であったとは考えられる。
ルパンに憧れて泥棒になった人がいたかどうかはともかく。
常識的に考えれば、ルパンたちは悪人なのだ。我々は「人殺しは悪いこと」と知っているし、「お金は働いて得るもので、盗むものじゃないです」とわざわざ口にするのもバカバカしいくらいに理解している。
けれども、ルパンが勝手に人の屋敷に侵入し、金庫を開けて金を盗んでいく過程をワクワクしながら楽しんでいるし、次元がマグナムをぶっ放し、五右衛門が人斬りをしたとしても、「カッコいい〜v」とうっとりしてしまっている。「何も盗まず、ケナゲな少女を助けて去るだけなんて、ルパンじゃない!」なんて演説かましたくなるし、正義のために頑張っている銭形警部がいつもズッコけることが楽しくて仕方ない人も…いるカモ、しれない(笑)。

この現実世界で常識的に「悪」とされていることをルパンたちがやってのけても、単純にカッコいいと思えてしまう。彼らは別に義賊ではないし、善人からも悪人からも欲しいものは盗む。現実にいれば単なる犯罪者だが、彼らに限って言えば、社会的な道徳観念による嫌悪感は生まれない。
まぁ、危険な香りのする人間に魅力を感じるのは、古今東西変わらぬ心理であろう。しかしそれよりも、モラルもへったくれもない生き方の中に在る、自分だけの「不文律」にひたすらこだわりつづける彼らのストイックさに、目を奪われてしまうのではなかろうか。
我々が現実に生きていく上で縛られる、常識や良識や道徳観念や、法律やさらには肉体的な限界。ルパンたちは軽々とそんな壁を乗り越えている。そして我々がもっと本当にこだわりたいと思っている「何か」だけを、純粋にこだわりつづけてくれるのである。
外的要因に縛られないと言うことは、自分以外の誰も自分を理解し、守ってはくれないということでもある。
そのリスクと厳しさ。孤独と強さ。アウトローである故に、カッコよさはますます際立ち、(決して真似は出来ないけれど)一つの理想の生き方として、多くのファンが魅了されているのではないかな…と思ったりするのだった。


だからこそ、「ルパン」は中途半端なリアリティを求めるよりは、思いきりあちらの世界の住人でいいと思う。
もともと無国籍なイメージが「ルパン」の持ち味で、下手に現代日本社会にルパンたちを紛れ込ませようとする必要もないと思われる。ホンダシビックに乗っているルパンとか(イヤ、それはある意味見たいかも)、満員電車に揺られている五右衛門とか(違和感ありすぎて見たいかも)、オフィシャルではあまりやって欲しくないなぁ…と思う。(Kは特に某作品以来、和風ルパンがちょっと苦手 ^ ^ ;)
ルパンたちが泥棒をする時、トンデモな発明メカが出てきたり、斬鉄剣で金庫をぶった切って華麗さも何もあったもんじゃない盗み方をするのも、まぁ時にはご愛嬌。超人的な頭脳や技術を駆使して、理論的には実現可能な仕掛けで不可能に挑んでいる姿などに、痛快活劇的なリアル性を感じて、Kは結構好きなのである。

つまるところ、ルパンは我々と同じ世界に立っているように見えて、異世界に住んでいる。「ルパン」という世界観は、基本的には「大人が楽しめるファンタジー」なのだろうなと思っている。

ルパンたち自身もそのへんは自覚しているようで(笑)、時折メタな話をしていることがある。

メタ・フィクションという小説の世界観があるんですけどね。
物語の登場人物が、自分が物語の中の人間だと自覚して言動をするという、ちょっとおかしな小説手法である。
実は全然詳しくないので突っ込まれると困るのだが、たとえば、推理小説で、Aを殺したBという犯人がいるとします。犯行がばれたBは言います、「俺は指示されて殺しただけだ、本当の犯人は俺じゃない!」
では誰が彼に指示したのか? ――もちろん、「作者」です。
小説を書いた人です。作者はだって誰かが死なないと事件が起こりませんから、BにAを殺させるのです。だから本当の犯人はすべからく、すべてが作者なんです。
推理小説として成り立たないよ…と思うのだが、突き詰めて考えていくと、それはそれでなかなか面白い世界観だ。

しかし、アニメではずっと昔からこの手の掟破りをナチュラルにやってのけていた。
簡単に言うと、「次回予告」。主人公の声優さんが、「やぁ、今回の話は面白かった? じゃ、次回はね…」と語り始めるものである。旧ルでルパンが、「チャンネルは決まったぜ!」と叫ぶのもそうだし、サザエさんが視聴者とジャンケンをするのもそうだし、「巨人の星」なんて最終回のエンディングの後、登場人物が一同そろって「長い間応援ありがとう」と挨拶したほどである(笑)。
旧ルの後半に時々見られる、物語の最後に銭形警部が「来週こそ捕まえてやるぞ〜」と地団太を踏んでいたのも同じだ。(ちなみに、これはそういうオチで終わらせることを定型化しようとした狙いが感じられ、K的には賛成できない試みだった) 今週もルパンにやられたが、来週の放送ではルパンを逮捕するぞと銭形自らが言っているのである。つまり、今週はこれで「終わり」だと銭形が自覚しているということだ。昔のアニメでさえこうなのだから、アニメは小説よりも歴史が浅い分、ずっと発想が自由で、こだわりがなかったと言えるのではなかろうか。
(まったく余談だが、漫画のメタ・フィクションの傑作の一つは『究極超人あ〜る』だと思う…)

新ルになって、このメタ・フィクションぶりは本編の中で多く出現し、いい味を出すようになる。あり得ない展開に、「そんなバカな! これだから漫画は…」と呟く次元とか、タイトルやエンドマークを出せ! と要求するルパンなどがそれだ。特にKの印象に残っているのは、金子裕氏や浦沢義雄氏の脚本の回である。風呂に入って全裸のルパンに、次元が「そんな格好でお茶の間の皆さんに失礼だと思わないのか」と注意したり、車からゴミを捨てると「お子様が見てるんだぞ!」と言ったりする、ちょっとした言葉遊び。こういうシーンだけを抜き出してコレクションすると楽しいだろうなぁ、と個人的には思っていたりする。
もちろんこういうオキテ破りは、好きな人もいれば、世界観が壊れるとして、好ましく思わない人もいるだろう。だって、追いつめられてぎりぎりの緊迫した場面などで、ルパンが飄々として、
「大丈夫。俺たち漫画だから死なないし」
なんてうっかり言ってしまったら、見ている方もそこで拍子抜けしてしまうに違いない。ルパンたちは何があっても死なないし、逮捕されても脱獄するし、危機一髪でも脱出するものだ。それは誰もがそう知っている物語のお約束なのだけど、あくまで「暗黙」の了解。登場人物がそれを言っちゃあ、おしまいなのである(笑)。
メタは使い方を誤ると、作品の世界観をぶち壊してしまうものだ。けれども現実世界と仮想世界との違いをはっきりと認識させ、言わせてやることが、逆に「リアル」さを演出しているとも考えられるのだ。程度はほどほどに、あくまでも遊び心で。そこにも「ルパン」のリアル性の一つの面があると言うのは……穿った見方なのだろうかな(苦笑)。

<了>

追加で語り忘れたことを語っておく。
小説の登場人物をよりリアルに感じさせる手法のひとつとして、作者自身が物語の中に登場するというやり方がある。これはわりと古典的な手法でもあり、他でもない、「ルパン3世」の本家「アルセーヌ・ルパン」シリーズで、著者モーリス・ルブラン自身も登場しているのである。
作中でルブランはルパンの友人であり、語り手「私」として時折登場し、ルパンの冒険談を執筆して発表しているという設定だ。子供の頃、最初に読んだ時は「え、ルパンて本当にいたの!?」と思ったものだ…(笑)
現在もこの手の設定は、特に推理小説などでは見かけることが多い。名探偵の助手役が小説家で、「わたし」という一人称。なんて考えると、好きな人ならすぐにいくつか思いつくでしょう?(笑)
ちなみに、「ルパン3世」の原作漫画ですら、作者モンキー・パンチ氏が登場している。ルパンとはお友達というほど親密な関係ではなさそうだが、さりげなく本家アルセーヌ・ルパンと似た設定になっているあたりは、狙っているにせよそうでないにせよ、面白い演出だと思わずにはいられない。
同じ原作で、ルパンたちが漫画の枠線を乗り越えて作者に「いい加減にしろ!」と怒りに行くという、メタなシーンもどこかにあった気が…(←ウロ覚え)

しかしながら。
「ルパン」を身近に感じたくとも、自分がその世界に登場できるかというと、そうでもないわけで。
テレビスペシャルではいろいろなタイプの女性ゲストキャラが出てくるが、リアルな生活感のあるキャラほど、ルパンワールドに馴染まないまま終わっている感が強い。また強烈なインパクトのある敵役だからといって、ルパンたちの素晴らしきライバルだった、と言えないことも多い。結局、ルパンワールドに「合わない」キャラはファンの心からもさっさと淘汰されているわけで、この辺りの排他性もルパンの特殊なところではあるだろう。時代に合わせて自在に変化していく「ルパン」だが、ベースになる部分は変わらないし、また変わってほしくないな、とも思う。
寛容なようで、実は強固な世界観の上に形成されている、それがルパンの隠された「リアル」なのかもしれない。

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